お麸の歴史
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精進料理と麸
麸は、室町時代に中国へ渡った修行僧によって伝えられました。
中国では、小麦のことを「麺(めん)」と呼んでいたことから、
強い粘りとコシがある小麦たんぱくは「麺(めん)の筋」という意味の
「麺筋(めんちぇん)」と呼ばれており、当時の麸は、
石臼で挽いた粗い「挽き割り小麦」を水で練ってこね、
水の中で洗い、澱粉と分離させた「小麦たんぱく」 のことを指しました。
当時、肉食を口にしないなどの厳しい戒律の禅僧にとって、良質な食物性たんぱく質である麸は、
豆腐や湯葉と同じく貴重な栄養源とされ、寺院の中で育まれました。
当時は小麦の作付け量は少なく、挽き割り小麦は高価で、
一般には口にする事は出来ず、宮中や僧堂で特別な時にのみ食されるものでした。
町衆の食べ物へ
江戸時代になると、麸は宮中や寺院から、懐石料理や茶会、法要の料理として
町衆にも食されるようになりました。
江戸時代の書物「食物和解大成(元禄11年(1698年)年刊)」や
「當世料理(嘉永6年1863年刊)」にも麸に関する記述が見られ、
町衆にも広まっていったことが分かります。
食物和解大成には、傷病の時に食べるといい食物
「好物」として多くの項に掲載されています。
天正年間に催された茶会記には「麸」や菓子として
「ふのやき」が多く記載され、
当時の茶人にも好まれていたことが伺われます。
天保11年(1840年)の千利休没後250年の追悼茶会の茶会記にも、
利休好みとして麸やゆばの記述があります。
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麸の発展
明治時代以降の産業の発展に伴い、それまで石臼で挽いていた
粗い「挽き割り小麦」に代わって外国からきめの細やかな
精白小麦粉が伝達されると、そのきめ細やかな粉を使った麸づくりが始まりました。
精白小麦粉を原料にした麸はかつてないなめらかな食感を生み出し、細工ができるようになりました。
その技術は現代の美味しい京麸づくりの基礎となっています。
また、すき焼きに焼き麸を入れるようになったのも、明治の牛鍋以降の定番です。
お麸の可能性
日本には、「京麸」だけでなく仙台の油麸、新潟の庄内麸など
各地方にそれぞれの地域の特徴に合わせて発展したやき麸があります。
その中で京都のやき麸は、宮中や寺院で育まれてきたことから、肌の白いお麸が特徴です。
生麸は、物流の発達により料亭や寺院から、
家庭でも料理されるようになりました。
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一緒に調理する食材の良さを吸収する魅力により、
京料理の枠を超えて幅広い料理法でアレンジされ、
プロからも感受性を刺激する食材として愛され続けています。
また、伝統的な和食用のお麸だけでなく、
チーズやハーブを練り込んだお麸や、
お菓子にアレンジしたものなど、
今の食生活にあわせたお麸もつくられています。
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